「消費されるブログ記事」まとめ

自分のエントリに感化されたというのもおかしな話ですが、こういうときに人柱になるのが俺です(苦笑

トラックバックで広がっていく話題についてはまとめが欲しいと思います。それもリンクを張るだけではなくて、議論の流れが解るように引用し纏められたものが欲しいです。こういう記事を作れる技量のある人というのが、ブログネットワーク上で求められているんだと思います。自分の意見をいることなく、議論を正しく読み込み整理する。これって結構技量の要ることです。

キチンとフィードバックされる仕組みはブログにはないんじゃないか。 - ブログ執筆中

議論の流れが解るように引用し纏められたものの価値を解ってもらうために、実際にやってみようと思います。対象は斬さんの消費されるブログ記事 - 『斬(ざん)』。まなめはうすの一年前のニュースで見つけて、深く読み込みたいと思っていた記事です。この議論は階層が浅いので、やりやすいかなと思って取り上げました。

元記事

要約
ブログの記事は消費されてしまう。少し話題になっただけで忘れ去られてしまうのに、時間をかけてブログの記事を書くことは効率が悪いだけだと悟る。


ブログの記事はライブ感が重要で、その考え方に順応できないのであれば、別の媒体を考えるべきだと感じた。


消費されてもよい記事を書くことと、時間をかけて記事を書くことは、別物として考えたほうが良いだろう。

消費されるブログ記事 - 『斬(ざん)』

書く立場として言及している記事

要約
このブログは、ライブ感を念頭において書いているが、もう一方のブログではじっくり考えて記事を書いている。

http://d.hatena.ne.jp/yas-toro/20060910/p4

要約
 『シナトラ千代子』様は「消費しているだけでは消費される存在にしかなれません」とおっしゃっていて(参照)、これに同意。


 ブログをコミュニケーションのツールとして使うのか、それとも、個人の主張を通すメディアとして使うのかを意識せずに投稿し続けると、自分の主張が消費されている感を持ってしまうのではないか。


 コミュニケーションのツールでありながら個人の主張を通すメディアとして何年も書き続けるのは相当しんどいと思う。

エントリーの「性」 | Parsleyの「添え物は添え物らしく」

要約
「書きたい記事」よりは「コメントをもらえそうな記事」に目が向いてしまい、反応を性急に求めてしまう傾向がブログにはある。反応を多く集めている方々はそういう「ライブ感」に上手にアジャストしていく中で注目される記事を書ける人たち。


「生な感覚で思いついたことを即書いて公開してしまう。そのパッションがウケる」には同意。自分の書きたいネタと反応を得やすいネタをうまくシンクロさせられる人がブログに合う書き手だろう。

ただし、その過剰さの中で押し流されそうにもなりながら、「反応がすぐ可視化されない状態にも凹まずに」どれだけペースとリテラシを確保していけるかが課題。
一番最初に来るべきものは「記事を書き、upすることの喜び」であって、「他ならぬ自分自身が書きたいという気持ち」をまず大切にしたい。記事の受け止められ方への自覚や読まれやすくするための色々な仕掛けや工夫はそういう気持ちを前提として必要とされるものだと思う。

要約
良い物を完成させても、TVなどではすぐ消費されてしまう。効率が悪い。 ――ローカルに徹して、地方巡業の長い旅の尻尾に出かければよいのです

はてなブックマーク - 消費されるブログ記事 - 『斬(ざん)』

インターネットの世界は無限かと思えるほどの広さです。その中で絶対的な広さを持っているように見えるブロゴスフィアであっても、全体から見れば細分化されたクラスタのようなものにすぎないのかもしれません。だから「無名の個人が何をやっても所詮無駄」ではなく、だからこそ「地方巡業の長い旅の尻尾に出かける」楽しさもあるのかもしれません。

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要約
ただ私は書きたい。それだけ。


そういう人間は、自分の書いたものを消費されようが忘れさられようが如何でもいいと思っているのでは無いかな。何故ならたった一人読む人間が居るだけで満足するのだから。そのたった一人の読者とは「私自身」に他ならない。それが私にとっての「本物の書く人」だと信じている。

本物の書く人は己自身に向かって書くものなのだ - 歓楽叶わぬ納骨堂庭園

要約

自分が有用と思われる情報を書いておけば、年月を置いてその情報を必要とする人が出てくるかもしれない。


多くの人に消費されるよりも、本当に必要とするその一人のための情報を書いておこう。

F's Garage @fshin2000 :消費されないブログ記事を書こう

読む立場として言及している記事

要約
消費するかどうかはユーザが決めることです

http://d.hatena.ne.jp/smallball/20060922/p6

エントリの消費に対して言及している記事

要約

ブログの記事は消費され易い。非常に秀逸な記事で無い限り、何度も取り上げられ、話題になることはない。


消費されるだけなのならば、何度でも同じ事を書けば良い。同じ話題が繰り返されるたびに、自身の主張を書けば良いだけだ。同じ議論に関しても、視点や状況が違えば違う記事になる。また、時が経つにつれ、自身の考えも変わるだろうし、新しい考えが自身や他者に生まれ、それを元にすれば新しい記事が生まれる。「エントリーは常に輪廻を繰り返す」のだ。


そもそも、多くの議論は答えが永久に出ない、人それぞれの解答がある場合がほとんどだ。答えは無いが、話題になる度に少しづつ良い方向に向かっていけば良いんじゃないかな。


ただし、何度も同じ事を書くとますます情報を検索するのが難しくなるという欠点もある。その為にも、過去の記事を釣り上げて参考にすることが大事なんだけど、それが心底面倒。


構造上発掘し難いブログで記事を書くよりも、より発掘し易いホームページに書いた方が良いんじゃないか。昔ながらのホームページが復権なんて可能性も捨てきれない。

ブログの記事が消費されるなら、何度でも同じ事を書けばいい - 最終防衛ライン3

要約

ブログは消費されるものだが、消費のサイクルに取りこまれていくことで、「エントリを消費する仕組みに取りこまれて消費されやすいエントリを書く」傾向へとハマっていきかねない。


一日二日で反応しなければならないほど急ぐ話題は滅多にないので、じっくりエントリを煮こむような方向で書くほうが良いのではないか。

「消費されるだけではないエントリ」を書くことでどうなるかというと、そこから他者のエントリを尊重するブロゴスフィアが生じていくのではないかと。そしてそのなかでこそブロガーは「長生き」できるのではないか。

脊髄反射でなにか書く」というのは読み手の態度であり、大事なのは書き手になることである。読み手の書き方ではブログの寿命を損ねるだけではないだろうか。

消費されるブロガーは消耗する、つまり短命になる。 - シナトラ千代子

雑感

反応は書き手の考え方に対するものが多かったが、読み手の考えに基づいて批判する人もいた。また、ブログエントリが消費されてしまうことについての記事も2つあった。
書き手の考え方に対する意見は、自分自身が書きたいという気持ちを大事にするべきとの意見が大半であった。また、エントリが消費されてしまうことに同意するものが多かった。


要約を作るのに想像以上に時間がかかりました。エントリは当然いろんな人が書いてるので表現もまた違い、それを吸収するために用語の置き換えをいくらか行っていたりしています。それでも、文章の雰囲気を大きく変えないようにあえて直さないようにしていたり。

まとめを作る意味、わかっていただけましたでしょうか。