会話は普通に出来る思考のレベルを上げていくための練習

この二つのエントリを見て気づいた。

(要約)

" 話すときは待ったなしで常にリアルタイムで話題が進行していく "

" 言わない方がいいことを瞬時に判断して口に出さない判断力や分からないことについても持ってる知識で話を繋ぐ話力 "

" ネットで何かコミュニケーションするときは、基本的に文字情報を介して行うことが多く、やりとりしたログが残るというのが大きな特徴です。 "

" リアルタイムに会話でコミュニケーションするときは、ログなどは残らず、どんどん話が展開していきます。自分の手札を多く持っている人が有利かもしれません。 "

" 話す能力も実際にいろんな場所でいろんな人と話していかないと身に付かない部分が多そう "

ネットで何かを書くこととリアルタイムに話すことの違い - 北の大地から送る物欲日記

(要約)

" 身体を通じて物理的につくりだされるものの多くは表現ではないほうが多いはず "

" 頭で(意識的に)思い浮かべずに身体的にアウトプットを創作する能力としてのボキャブラリは、創作力の1つではあっても表現能力というのとはちょっと違うのではないか "

" 高い意識をもたないと続けられないような練習では、本当にレベルをあげることはできないのでしょう。そうではなく、むしろ、意識しなくても当たり前にできることのレベルをあげる練習こそが、本番での実力発揮を助けることになる "

" 描くこと、弾くこと、身体を動かすことで、頭のなかにイメージができあがってくることは、素人が考えている以上に多い "

普通にできることのレベルをあげるための練習: DESIGN IT! w/LOVE

ブログを書くようになって実感したことがあって、思考のレベルが低かったとしても、きちんと段階を踏まえながら進めていけば、それなりに質が高い記事というものは書けます。ちょっとしたことでも、前提と言いたいことをきちんと踏まえたうえで書き始めれば、右往左往しつつも、はてブしていただけるようなエントリは書けます。


逆に言うと、俺にとってブログの内容を書く行為というのは、前提と言いたいことをきちんと踏まえた上での思考の中で、駄目なものをそぎ落としていくことで質を高め、形にしていく行為だと考えています。それゆえ、思考のレベルとしてはそんなに高くない。


ただ、話すようにブログを書いている人は少し違うのではないかなと思います。そこにはやり直しがない。順次書いていく一つ一つの文章の質が最初から高くなければ、質の高いエントリは生まれないはずです。
ああ、そういえば。検索しても出てこないので貼れないんですが、結論が考えていたものと変わってしまうという旨のエントリが昔どこかのブログにありました。この人は話すようにブログを書いていたんだろうな。

話すようにブログを書く行為がこうなのだから、話す行為も同様に常にレベルが高くないといけない。常にリアルタイムで話題が進行していく会話において、話にきちんと付いていけるのは、話のレベルで思考できないといけないのでしょう。


会話は普通に出来る思考のレベルを上げていくための練習なのかも知れません。


そういえば、主要な会話ツールとしてIMとチャットが旧来からありますが、最近はチャットが設置しているページをあまり見ませんし、使われている形跡もあまりありません。もう少し利用したほうが良いのかなと、このエントリを書きながら思ったのでした。